群れて暮らす

羊の雑記

コロナ不安をニートから見る

僕はあまり人生がうまくいっていない。仕事はしていないし恋人もいないし、なのでこのような事を考える。どうして僕の人生はうまくいかないのだろう?ある人は社会のせいにしてはいけないと言った。いいだろう、この際思いっきり社会のせいにしてみよう。どうせヒマなのだから。

 

とかくこの日本は心配性な人が多すぎる。最近はコロナうつになっている人が増えているらしい。僕はうつではないけれど別の精神疾患を抱えている。それは高校生の頃からそうなのでコロナは関係ない。なぜ僕は病んでしまったのか?軽いイジメのようなものは受けたけれどそれはひとつの要因にすぎない。それは大多数の日本人が作っているこの社会にあると思う。

 

マジョリティのための社会。学校教育は狭い教室で椅子に座らせないとならないくらい学ぶことに興味を持てない好奇心のない人達のためのものであり、長時間労働はそれほどのストレスを自らに与えないと動けない行動力のない人達のものだ。彼らはどこへ行くこともできない。それが彼らにとって生きることであり運命ともいえる。

 

彼らは遊ぶことを軽んじ遊ぶ人をバカにしている。そのくせ、ストレスを自分より弱いと思った者にぶつける。「あいつはダメだけど俺たちは大丈夫だ」。何が大丈夫なのだろう?君たちは十分守られているはずだ。真面目な人たちが作った真面目な人たちだけの社会、その中に君たちは入っているはずだろう?

 

コロナはそんな日本人をふるいにかけた。「コロナうつ」という言葉が出てきた、ある者は自粛警察となった、ある者は自ら死んだ。本来、人との接触を好まず感染症の歴史から生き残ってきた日本的マジョリティがマイノリティが作ったテクノロジースマホやテレビから来る情報によってやられている。これも自然淘汰だというのだろうか。

 

そうなるとこれまでの日本人的生き方は通用しなくなるのかもしれない。真面目に自粛している人たちは仕事に手がつけなくなるほど病み、やがて働き手として使えなくなる時代が来ているのかもしれない。

 

ただそんな妄想をしたところで何かが変わるワケでもない。僕が病気になった社会、そんな社会を作っているマジョリティを敵視する、安直なような気もする。不安症な人たちはどうしようもない人たちともいえるがそんな人たちがいるので日本はなんとか形を保っているともいえる。そんな僕も不安症なのかもしれない。