群れて暮らす

羊の雑記

毎日散歩をして思うこと

僕は毎日散歩をしている。散歩をしない日はない、雨でも傘をさして歩く。なぜ歩くのか?退屈になったら歩くようにしている。趣味のギターやゲームがつまらなくなったら歩くようにしている。そうすることによってまた遊びが面白くなる。僕にとって散歩とはラーメンを食べる時の「水」である。あるいは「白飯」である。ずっとラーメンを食べていると舌が味に慣れてくる、そこで水を飲み一度舌をリセットする。頭の中をリセットする、それが僕にとっての散歩だ。

 

散歩している時は前を見て歩かなければならない。トイレには行けない。ペットの猫とも遊べない。冷蔵庫のコーラは飲めない(飲むなら自販機で買わなければならない)。つまり我慢することが多い。家にいたらできることができない。僕はそれをいいことに散歩する時はスマホを置いていくようにしている。そうすることでスマホ依存を解消するためだ。これはかなり効果があるようで出かけた際、暇な時間があればスマホをいじるという習慣がなくなってしまったほどだ。

 

運動面を見ても歩くことはよい。体重は56キロをキープし続けている。体力もそれなりにつく。もうだいぶ経つので忘れていたが散歩を習慣にする前の僕はとてもイライラしていたように思う。元々音楽を聴きながら歩くのが気持ちよかったので始めた散歩だがいつの間にか音楽を聴かず歩くようになった。ただぼんやりしながら歩く。無感情でいるくらいが忙しない現代ではちょうどいいはずだ。

フツーでいること

  「迷ったらフツーにしていること」。よほど周りが見えてないのなら話は別だがそれでよいような気がした。フツーにしていればよいと気づけばその場その場の環境に合わせた"フツーの自分"になる。ちょうどよい自分。暑ければ上着を脱ぐように体の中にあるリズムが周りと合わせてくれる。ただフツーにしていればよいのだ、僕にはもうわかっている。

 

  ただそんなフツーの自分が嫌だったり辛かったりするのなら環境が間違っている。陽キャはオタクの集まりには入らない。その人その人に応じた住む場所がどこかにある。だから環境を変えるというのは自分が移動することだ。外へ出る、居心地のよさを追及してみる。自分の部屋が嫌なら趣味を変えてみる。自分から動いてみる。ただフツーであることを目指せばいい。合う人、合わない人、無理に人と付き合う必要はない。ただ居心地のよさを追及すればおのずと会う人と会う。

 

  行きたいところへ行けば同じような人が集まるものだ。あなたが学生ならあなたが行きたいと思った学校にあなたと同じような人がいる。あるいは勉強が嫌いなら学校へ行っても途中で辞めるかもしれない。それぞれが"フツーの自分"を目指している。自分はこういう人間である、それは周りからそう見られているのもあるし本当は違うんだと思っている気持ちもある。何者かになる必要はない、ただフツーでいればいいのだ。

コロナ不安をニートから見る

僕はあまり人生がうまくいっていない。仕事はしていないし恋人もいないし、なのでこのような事を考える。どうして僕の人生はうまくいかないのだろう?ある人は社会のせいにしてはいけないと言った。いいだろう、この際思いっきり社会のせいにしてみよう。どうせヒマなのだから。

 

とかくこの日本は心配性な人が多すぎる。最近はコロナうつになっている人が増えているらしい。僕はうつではないけれど別の精神疾患を抱えている。それは高校生の頃からそうなのでコロナは関係ない。なぜ僕は病んでしまったのか?軽いイジメのようなものは受けたけれどそれはひとつの要因にすぎない。それは大多数の日本人が作っているこの社会にあると思う。

 

マジョリティのための社会。学校教育は狭い教室で椅子に座らせないとならないくらい学ぶことに興味を持てない好奇心のない人達のためのものであり、長時間労働はそれほどのストレスを自らに与えないと動けない行動力のない人達のものだ。彼らはどこへ行くこともできない。それが彼らにとって生きることであり運命ともいえる。

 

彼らは遊ぶことを軽んじ遊ぶ人をバカにしている。そのくせ、ストレスを自分より弱いと思った者にぶつける。「あいつはダメだけど俺たちは大丈夫だ」。何が大丈夫なのだろう?君たちは十分守られているはずだ。真面目な人たちが作った真面目な人たちだけの社会、その中に君たちは入っているはずだろう?

 

コロナはそんな日本人をふるいにかけた。「コロナうつ」という言葉が出てきた、ある者は自粛警察となった、ある者は自ら死んだ。本来、人との接触を好まず感染症の歴史から生き残ってきた日本的マジョリティがマイノリティが作ったテクノロジースマホやテレビから来る情報によってやられている。これも自然淘汰だというのだろうか。

 

そうなるとこれまでの日本人的生き方は通用しなくなるのかもしれない。真面目に自粛している人たちは仕事に手がつけなくなるほど病み、やがて働き手として使えなくなる時代が来ているのかもしれない。

 

ただそんな妄想をしたところで何かが変わるワケでもない。僕が病気になった社会、そんな社会を作っているマジョリティを敵視する、安直なような気もする。不安症な人たちはどうしようもない人たちともいえるがそんな人たちがいるので日本はなんとか形を保っているともいえる。そんな僕も不安症なのかもしれない。

 

 

 

 

ボードゲーム作りを始める

ボカロPがひとり消えた。彼はこれまで10年ほど曲を作り続けてきたがツイッターの更新と共にその姿を消した。僕のことである。天才はなぜ消えてしまったのか…?理由は疲れたから。パソコンで曲を作るのはしんどいのだ。音楽の夢と共に僕は長い制作を終えた。もう数年前のことである。

 

それから僕は何をやってるのか?ボードゲーム作りである。パソコンで画用紙を印刷してチョキチョキはさみで切っている。なぜかって?ボードゲームブームだから。別に流行に乗ったワケではない、気づいたらそうなっていた。そういやボカロPを始めた頃もボカロが流行っていた(僕は初代、初音ミクを使っていた)。時代の流れというものがあるのか、僕は見事に流されている。

 

僕は自分自身が何かを極めるタイプだと思ってたのだがそんなことはなかった。楽しそうな方へどんどん流されている。みんながやってるから飛びつく、面白そうだからやってみる。それは人生をかけて取り組むようなものではなかった。例えるなら“砂場の城”。1日かけて作ってもいつかは崩れていく。何も残らない、でもまた城を作る。

 

10年続けた作曲をやめたことで僕の中のハードルが低くなった。結局、曲を作っても“何も残らない”。僕のネット上にあげた曲は滅多に聴かれないし聴いてもらえないのならそれは存在しないのと同じだ。現に作った曲のことなんか僕が忘れてる。大切なのは作っている間の時間なのだ。それが楽しいと思えたらいい。

 

それからこれまで無駄な時間だと思っていたゲームやアニメを観たりすることもするようになった。遊びの幅が広がってだんだん楽しくなってきた。僕は有名なボカロPにはなれなかった。でも曲を作るのは楽しかった。これから作るボードゲームはどうなるかはわからない。けれど楽しめればそれでいいのだ。

生きてる意味を語る

暇なので生きてる意味を語る。生きてる意味とは?暇だからそんなことを考える。あるいはまだ先が長いからそんなことを考える。少なくともまだ50年は生きるだろう、そんな余裕が垣間見える。紛争の中で暮らしてる人達は生きる意味を考える余裕なんてないかもしれない。日本は平和ボケしている。ちょっと想像してみると日本はなんて恵まれているのだろうと気づく。

 

水道の蛇口をひねる、水が出る。それでお湯を沸かす(最近の電気ポットはスゴい)。それでカップ麺なんか作る、3分後には食べられる。早すぎる、昔の人は井戸から水を組んだり薪を割ったりしていただろうに。結果、暇ができる、生きてる意味なんか考えだす。

 

生きてる意味なんかない、と言ってしまえばそれまでなのでちゃんと考える。生きてるとは…?現代人はマンモスを追いかけない、まず働いている。お金が必要である。でも憂鬱になったサラリーマンがたまに線路に飛ぶ。死にたい死にたい死にたい…

 

まあ生きてる意味なんか考えても仕方ないのである。考えてもつまらない。そう、つまらないのである。目の前の事がつまらない。世の中はリア充推奨。僕たちは遊ぶべきだ、大いに遊ぶべきだ。僕は最近、ゆるキャン△というアニメにハマっている。昔観ていたけいおんのような雰囲気で面白いのだ。今、僕に生きる意味を問うならばゆるキャン△と答えるだろう。


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けん玉を語る

けん玉は遊ばなければそこで静かにしているだけだ。しかし、その存在感は読まなくなった本よりも大きい。まず、立っている。直立している、しかも剣が玉を支えている。微動だにしない、震度3の地震に耐えられるかもしれない。

 

手に持ってみる、木のぬくもり、軽すぎず重すぎず丁度いい。けん玉で遊ぶ時はイスから立ち上がらなければならない。ベッドで寝っ転がっては遊べない。そこがいい。座りっぱなしはうつを引き起こすと言われている。けん玉があるだけで立ち上がる、うつの要因がひとつ消える。

 

けん玉には色んな技がある。有名なのは玉を大皿に乗せる技。正月によく見るヤツ、初心中の初心。ぼくはもうそんな簡単な技は覚えてしまっている。失敗するのは空腹か寝不足の時くらいだといえるほど上手くなっている。もっぱらぼくがやるのは「ふりけん」とか「飛行機」という技だ、それもだいたいマスターしている。

 

挑戦というよりは暇つぶし。スマホでもいじるが如くけん玉をする。玉が剣にささる、たまに失敗する。ぼくは飽きるまでそれを繰り返す。飽きたらやめる。けん玉はまた静かになる。音を立てず、誰かが再び手に取るまでじっとしている。

 

けん玉の情報は少ない。ここでいう情報というのは「HP」とか「スタミナ」とか「効果」とか遊ぶのに必要なもの。大皿、中皿、小皿、剣、玉、見ればわかる。手に取ればわかる、けん玉と聞くだけでイメージされる。けん玉は頭を使った遊びではないのだ。目で見て手を使い足を使う。感覚遊び、スポーツと似ている。頭の使いすぎだと言われてる現代人にピッタリかもしれない。

 

けん玉で友達はできるか?多分、できない。ネタにはなるがそれ以上はない。けん玉仲間ならできるだろうが人口は少ない。ランニングする人より少ない。アニメを見てるほうが友達はできるだろう。それでも寝転がってスマホをいじってるよりかは充実してるように見える。インスタント麺に野菜を入れるくらい健康的に見える。いつかけん玉が流行ったらぼくはヒーローになれる。「飛行機」が決まる、気持ちいい。


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Twitterがやめられない

先日、一晩中Twitterをしているとおかしな妄想に囚われた。「東大生の作った自殺防止サークルがTwitterを通して死のうとしている僕を助けようとしている」。それは東大卒の人とやり取りをしていたからだろう。本気で死のうとは思ってなかったがついこの間、僕は「死んでしまいたいな~」ともツイートしていた。それを見た東大生が僕が死ぬのを止めようとしているストーリーだ。世界が僕を中心に回っている…そんな優しい世界は次の日目覚めると綺麗に消えていた。

 

まるで『電子ドラッグ』。それが深夜の時間だったのもあるだろう。深夜はロクなことを考えない。テーブルランプだけの明かりの部屋でポツンとひとりスマホをいじっている。スマホに囚われている。スティーブ・ジョブズはとんでもないものを開発してしまった。こんなものを国民一人一人が持っていると思うとなんだか恐ろしい。精神病なんてものはなく、電子ドラッグのやりすぎが人を病ませているんじゃないかと思える。とにかく妄想を見た、フツーではなかった、でも寝たら醒めていた。世界が僕を中心に回っている…ドーパミンが出すぎるとそんな心境になるのかもしれない。

 

次の日、僕はスマホの電源を切って手の届かないところに置いた。代わりに本を読んだ。村上春樹海辺のカフカ。この前、母にもらった図書カードで買ってきたのだ。本はよかった。だってそこには自分がいないのだ。Twitterとちがって『垢名』はいらない。余計なものはない、あるのは文字、読むか読まないかだけ。そうして僕は日常を取り戻した。本は想像ではあっても妄想にはならなかった。自意識過剰だったのがちっぽけな日本国民の一人になった。健康的だ、このまま本を読む生活を続けていきたい。